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秋のお彼岸、お彼岸の由来と歴史を解説!早良親王の祟り?波羅蜜って?

菊の花

先月までの暑さもどこへやら。
ここ最近、だいぶ過ごしやすい気温となってきました。
「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、
今回は秋のお彼岸に注目して、お彼岸の歴史と由来を解説したいと思います。

① お彼岸のはじまり ~歴史からみるお彼岸~

お彼岸と言えば、やはりお墓参り。
多くの人がこの日に墓参をし、お墓の掃除やお供え、焼香を行うと思うのですが、
なぜこの日にお墓参りをするのでしょうか。
このお彼岸に行うお墓参り、彼岸会の起源は1200年ほど前まで遡ります

西暦806年(大同元年)に公式な記録として残る日本初の彼岸会が執り行われました。
早良親王のために七日間の間、昼夜を問わずにお経を転読することを諸国の僧に命じたのです。
日本史に詳しい方は、早良親王という言葉にピンときたのではないでしょうか。
早良親王というのは、桓武天皇の弟にあたる人ですが、
立太子を望まれておらず出家をしており、
東大寺に住んでいたことから、親王禅師と呼ばれておりました。
しかし、桓武天皇が天皇に即位すると同時に皇太子となっております。
桓武天皇は即位当時45歳。既に老年ともいえる年齢から、
早良親王が立太子されたといわれております。
ですが、長岡京遷都を提唱し、推し進めた藤原種継を暗殺した疑いをかけられ、
太子を廃されてしまいます。
というのも長岡京への遷都というのは、
東大寺をはじめとする既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く意味があり、
東大寺と関わりの深い早良親王が関与しているのではないかと疑いをかけられました。
その後、早良親王は藤原種継暗殺に関与した疑いから、幽閉、配流されます。
ここで早良親王は無実を訴えるため、10余日飲食を断ちますが、
配流の途中で憤死したとされております。

その後、桓武天皇の周りでは、新たに立太子された安殿親王(後の平城天皇)の発病や、
天皇妃や母の病死、疫病、洪水、日照りなどの天災が相次ぎ、
早良親王の祟りであるといわれました。
この凶事に関しては、学生の頃の日本史の授業でも触れた方は多いのではないでしょうか。
その後、794年、長岡京から平安京へ遷都を行い、
800年には早良親王崇道天皇と追称することを決め、この祟りを鎮めようとしたのです。
そして、806年に前述の彼岸会が執り行われました。
彼岸の法要のはじまりは、ここから始まっております。
ちなみに、上記のような経緯から、インドやミャンマー、タイ、中国などの他の仏教国には、
このお彼岸行事は存在しないそうです

② 仏教のお彼岸

では、なぜこの法事が「彼岸」と呼ばれるようになったのでしょうか。
それは、仏教用語の「波羅蜜(パーラミー)」を意訳して、
「彼岸」と呼ぶようになったといわれております。
「彼岸」というのは、文字通り向こう側の岸を指しており、
対義語として「此岸」という言葉があります。
この「波羅蜜(パーラミー)」、「彼岸」という言葉、仏教的には悟りの境地としており、
逆に「此岸」迷いのある状態、つまり今いる現世を指しています。
この「彼岸」の悟りが後々の世で意味が変形し、
あの世の「極楽浄土」を指すようになり、彼岸にご先祖様がいるという事から、
鎮魂の法要から、ご先祖様を供養する風習に変わっていったとされております。

③ 秋のお彼岸はいつ?

秋分の日がお彼岸の中日となります。
ですので、秋分の日と前後3日間が、秋のお彼岸となります。
ちなみに、国民の祝日に関する法律では、秋分の日を、
祖先をうやまい、なくなった人々を偲ぶこと」を趣旨としております。
年に二度しかないお彼岸。
この機会に、ご先祖様のお墓参りに行ってみませんか?

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